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提供者さんインタビュー

Vol. 09

鈴木ゆみ子さん
Vol.09:鈴木ゆみ子さん

ドナー登録から6年目にやっと実現した待望の骨髄提供は、人生の「大きな転機」に。鈴木さんにとっての「ドナー体験」を伺いました。

ドナー登録から決定まで

慢性骨髄性白血病と闘う中堀由希子さんのドキュメンタリー番組を見たことが、ドナー登録のきっかけです。当時は歯科大の学生で忙しかったので「卒業したら登録しよう」と友達と話しました。後日、中堀さんが亡くなったことを知り、手帳を見たらその日は飲み会だったんです。自分より少し若いその女性が亡くなったその夜に、「私は何をやっていたんだろう...。これは登録しなくちゃいけないな」と思って、卒業した年の夏に登録しました。

それからは、「いつかはドナーになりたい」と思いつづけました。だから6年近くたって最終的にドナーに決定したときは、「やったー!」という感じでした。最終同意してから骨髄採取まで約2カ月あったのですが、お酒を一滴も飲まなかったんです(笑)。何か1つ決めてその日までやり通したいと思いました。相手の方にそれがどれくらい役に立つか分からないけれど、何かしたいという気持ちでしたね。

その時、家族の反応は

ドナーに決定したとき、母も私と同じように喜ぶと思っていたら、「あ、決まっちゃったの...、どうしましょ」と困ったような反応で意外でした。でも、私は結婚していないので子供はいませんが、自分がドナーになるより、自分の子供がなる方が勇気がいるだろうなと思います。でも、採取の日、見舞いに来た母が帰ったあと、手紙が置いてあって。「私はゆみ子を誇りに思います」って。病室で1人でいるときに発見したので、うるうるっと。いまも手帳に入れて持ち歩いています。

お知り合いの発病が分かったのは、その直後?

実は決意は固めたものの、全身麻酔が必要ということに漠然と不安があり、講演会から実際の登録までは、少し時間が空いていました。確かそのあいだに、叔母と仲人の発病が分かったんです。ドナー登録が2人の病気を知る前だったのか後だったのか、知り合いの発病がとてもショックで、よく覚えていません。2人とも50歳を越えての発病だったので、バンクを介しての骨髄移植という方法もなく、周囲の私たちにもつらい闘病でした。結局、叔母は発病から数年で亡くなったんですが、叔母の闘病の記憶がまだ新しいうちに、最初の適合通知が届いたんです。

骨髄採取の体験について

採取する当日、先生がふらっと病室にいらして、「緊張してる?」と聞かれて、「まぁ」と答えたら、「君の安全だけは必ず守るから、任せてください」と言われたんです。すごいなぁと思って。万が一のことがある医療行為の中で「必ず守る」とか「任せてください」という言葉は、なかなか言えない言葉なのに。もちろん骨髄液が必要なわけだけど、採取するだけでなく、1人のドナーとして、自分の体も人格も大切にしてもらえたというのは、その後の「経験してよかった」と思えたことの大半を占めている気がします。

患者さんから手紙をいただいたときには、もう号泣しました。というのは、採取前に私が出した手紙に「社会貢献できて、夢が叶った」と書いてしまったんです。でも、採取を終え、退院したら社会貢献とはとても思えなかったし、相手の方が命をかけて闘っているのに「夢が叶った」と書いたこともものすごく後悔しました。そう思って1カ月たったときにお手紙が届いて「私が恩返しできるのは、元気になること、そしてあなたのように社会貢献できるようになること」と同じ言葉を使って書いてあったんです。うれしいと同時にほっとしました。

提供から2年たって、今の想いは

毎年やってくる採取したその日、日本のどこかに私ともう1人、今日だな...と思っている人がいると思うと励みになるし、元気でいてほしいと思う。歯科の仲間たちとの研究会で話をしたことがきっかけで、『歯界展望』にドナー体験記が載ったり、採取で終わると思っていたのに、そこから自分の人生が動き始めた感じです。.  相手の方からの手紙にあった「恩返し」という言葉が心に残っています。私も本当にみんなに恩返ししたい気持ちです。親切にしてくださったコーディネーターを含め、骨髄バンクにも。ドナーになることは、たまたま自分に向いていて、自分はすごくよい体験だったから、そういう気持ちが少しでもある人には、私の想いを伝えていきたいと思います。

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